いつぶりなんだ~と自分で思いつつ更新します!
つづきからどうぞ
「こんちゃーっす」
「痛っ!」
道場前の駐輪場に自転車を留めた琢磨は、背中を叩かれて叫んだ。
振り向くと誰かが立っていた。顔を見たわけではないが、自分の目線では相手の襟元しか確認できなかったことと、背中を打ちつつ挨拶をしてくるという人間は1人しか思い当たらなかったことからそれが誰なのかを特定した。
琢磨は見上げて言い返した。
「突然やめろよ!」
「あ、すいません。そんなにびっくりされるなんて…」
言われた相手、甲斐玲二は返って驚いた顔をしている。
近くの白い車がクラクションを鳴らして走り去っていくのに、怜二は手を振りながら叫んだ。
「どうもありがとうございました!」
「あれ、的場…絵美さん?」
琢磨が聞くと、玲二は車から目を離さずに答えた。
「そうですよ。途中で偶然会って、乗せてくれました」
副師範が、戸を開けて出てきていた。
「玲二、今の絵美さんか?」
「あ、副師範こんにちは。そうです、あれ絵美さん」
「そうか~…。寄るなら、ちょっとやっていけばいいのになあ」
独り言のように呟く副師範へ玲二は言う。
「絵美さん、今の時間まだ仕事中なんですって」
「そうか、…しょうがないか。玲二、琢磨、早く着替えとけ」
言われた二人の返事は同時で、その後で玲二が質問を飛ばした。
「副師範、今日の稽古の予定はなんですか?」
「ああ、マッソギだ」
琢磨が甲斐玲二と道場で初めて会ったのは、昇級審査が終了した直後である。
春休みの中ごろ琢磨が道場に着くと、桧垣がマッソギの練習をしていた。
そのときの相手が、ジャージ姿の玲二だった。
「こんにちは、瀬田さん」
床に座り込んだ瀬田が対戦する2人、特に玲二を眺めていた。
「おお、琢ちゃん」
琢磨は道衣や防具が入ったバッグを置き、瀬田の横に並んで座る。
「…あの人、誰ですか?」
そう琢磨が聞きたくなるほど、玲二には人の目を奪う力があった。
上背もあり、何より動きが力強い。純粋に、「あの蹴りが当たったら痛そうだな」と思わせられる。
「あいつか?玲二」
瀬田は気のない返事を寄越した。
玲二、という名前を聞かされてもそれだけでは無論素性を知ることは不可能だ。
瀬田さんはきっと集中して見ていたいんだろうな、と琢磨は静かにバッグを持ち上げかけた。
「受験終わったからって復活したんだよ。…あつ、1年休んでたくせにいきなりあれだけ動けるってどーいう…桧垣、なんでそこ食らう!ダセーぞ!」
突然の瀬田の叫びに琢磨は「受験終わったっていうなら大学生か」と漠然と推測したものだった。
「マッソギかあ。琢磨さん、もう俺、本調子ですよー。ブランクをものともせず!」
表情をすぐさま笑顔に変えて、琢磨とほとんど同じ形の学生服を着た玲二はその襟元を直す。
歳は1つ下なのに、琢磨と違い体格は既に成長しきった感じがある。
「こんばんは」
琢磨は副師範に続いて道場に入り、中の皆に挨拶する。
我ながら思った、沈んだ声音だ。
「こんばんは~」
続く玲二の声は対照的に明るい。
「こんばんは~」
「よー、琢磨」
既に道衣に着替えて体を動かしている道場生達から、挨拶が返ってくる。
今日は金曜日だから、時間が経つにつれて人が増えていくことだろう。
事務室に用があります、と玲二はそちらへ向かった。
琢磨が更衣室へ入ると、星秀が着替えを終えかけていたところで丁度帯を締めていた。
「よう」
「こんばんは」
星秀は眼鏡を外している。
やっぱり、あまり周りは見えていなさそうだ。俺が入ってきたってこと、分かったのかな?
そう思いつつ、琢磨はスポーツバッグを静かに床に置いて、星秀に背を向ける。
未だに星秀を目前にすると緊張する。
自分がどう思われてもいい、というどうでもいい相手なら適当にあしらうことも出来る。
しかし星秀は先輩であり、出来ればいつかは自分を認めてもらいたい相手だった。
出会ってから1年あまり。話す機会はけして少なくなかったが、琢磨は常に緊張感を持ったままでしか星秀に接することが出来なかった。
前回の全国大会の観戦は出来なかったものの、都内で催される様々な大会に赴いて、星秀がかなり優秀な選手なのだと分かってきたこともある。
琢磨には、星秀との距離があまりに遠すぎるように思われた。一方で、なぜか副師範や椎名、指導員となら歳が離れているせいもあってか返って気楽な思いで話せるのだった。
着替えを詰めた袋を床に置く。壁際に置かれているロッカーには鍵などついておらず、空いているスペースを各自が勝手に使用している。
半分開かれた扉には様々な色の帯が掛けられている。皆、帯は持って帰らずにここに干したままにしておくのだ。
帯を干す、ということへ考えが及ばなかった琢磨は道場に入りたての頃、選択に出すことなく取り扱っていた帯にさっそくカビを生やした。
それを聞いた瀬田は「緑帯になったらカビ生えても目立たないぞ!」と冗談なのか本気なのか判別しがたいことを言った。
「お前、この前審査受けただろ」
服を脱ぎ始めた琢磨に星秀は話し掛けてくる。
「あ、うん」
横で見てたじゃないか。琢磨は、審査の様子を思い起こす。
審査では、受験者ではない者も自由に見学できる。
色帯の見学者は受験者の後ろ側、つまり審査官が座っている方へ対面して座るのに対し、黒帯たちは審査官の横に並んで座る。受験者を斜め前方から見る位置となるのだ。
審査では、蹴りによる板割りの際に板を持つなど黒帯たちが手伝いをする場合もあるが、大人数が必要とされるわけではない。星秀も、当日は単に見学に来ただけのようだった。
ただでさえ緊張しているのに星秀も見ているかと思うと、失敗できないという気持ちが強くなった。
「賞状来てたぞ、事務所に」
「えっ?」
どうやら審査の結果は出たらしい。琢磨の手は止まった。
賞状は帯と共に、審査の結果として手渡される。
練習の開始時に発表されるだろう。俺は、飛び級は出来ているのか?そのことばかりが気になった。
先刻会った副師範から、審査の結果について何も言われなかったのが返って不安だ。
もしかして、「残念でした」という結果だった。
でも、自分の審査での出来具合が果たしてどうだったのかを星秀に今聞く気は起こらなかった。
琢磨の気持ちを乱すだけ乱しておいて、星秀は戸口へ向かい琢磨に背を向ける。
「お前さあ」
ドアノブに手を掛けて、思い出したように言い星秀は振り返る。
飛び級について考え詰めていた琢磨は少々うるさげに反応した。
「…なんですか?」
「いや、あのな」
星秀は少し黙り、俯いた。厳しい表情をしている。
こんなときに審査の評価か?できれば聞かせてほしくない。
結果が気になっている琢磨には追い打ちだった。
突然星秀は顔を上げて言った。
「お前、審査のときはずっと耳真っ赤だったよな~!」
「…え?」
星秀がはっはっと笑って戸を開けようとすると、同時に向こう側からも開かれた。
「おっと」
「うわっ、すいません!失礼しまーす」
玲二が入ってくる。
おい、俺って星秀に声を立てて笑われたぞ、と琢磨は思う。
星秀には、審査時の琢磨の様子がよっぽどおかしかったのだろうか。琢磨はさすがに怒りを覚えた。俺は必死だったのに。と同時に顔も赤くなった。
もう、そういうところは見てほしくないんだよ!あの動作がよくなかった、とか言われるのならまだしも。
先輩なんだ、と改めて気付くのはこういう時だ。
帯の違いという絶対的な距離は確実に存在する。だがあまりに歳が近いばっかりに、こういうことで腹を立てる場合も多い。
琢磨は自分の頭に血が昇るのを自覚しながら黄帯を締めた。
そしてふと思った、果たして今日を限りにこの帯の色は全く変わるのか…それとも黄色の箸にほんの少し緑色が入っただけの新しい色の帯を手に入れることで終わるのか。
「琢磨さん、出ないんですか?てか、どうかしました?」
玲二に言われて琢磨はやっと我に返る。
出会った当時に玲二を自分より年上だと思い込んだ琢磨と同様、玲二は見た瞬間に琢磨を年下だと思ったらしい。
「お前ら、もしかしてお互いに琢磨の方が年上だって分かっててそれなの?」
2人の間の会話を耳にし、投げられる敬語の方向がどうも逆だ。そう感じたらしい瀬田の一言により、上下関係(少なくとも年齢的なことに関して)は逆転したのであった。
瀬田に倣い「琢ちゃん」と琢磨を呼んでいた玲二は、琢磨の姓を初めて聞き、更に言った。
「あ、でも『佐々さん』てちょっと言いにくいですね。そんなら『琢磨さん』でいいですか?」
それもなんだか耳慣れないし、呼ばれたとしても妙な感じだな。
琢磨はそう思いながらつい「いいですよ」と言いそうになりつつ「いいよ」と返した。
琢磨は未だに常に未を硬くして星秀と話すのに、星秀の方は大分気軽さを持って琢磨を扱うようになってきた。
何といっても帯は格下、それに歳も下とあっては星秀には琢磨に気兼ねをする理由がどこにもない。
ただ琢磨の方が気後れしているのが、2人が今ひとつ近づきあぐねている原因であった。
星秀は琢磨を相手に話しているとき、たまに笑う。
でもそれは俺自身を笑うような場合だけだ、と琢磨は思っていた。