「つづきはこちら」からどうぞ!
「あれ?」
琢磨は小さく声を上げた。テレビで見た道衣と違う。襟の黒い縁取りがない。
椎名さんの道衣にもなかったっけ?あと、そういえば上着は被る形じゃなかったか?自分が受け取った道衣は、着物と同様に前で合わせるようになっている。
不思議に思いながら、琢磨は着替えた。サイズは合っている。白い帯も締めた。
更衣室から出た。扉の向かいの壁一面は鏡になっていて、自分の姿が見える。
帯、道衣。全身真っ白だ。
「あ、帯が変だな~」
座って両足の裏を合わせて前屈をする、そんな柔軟体操をしていた椎名が立ち上がって寄ってきた。
「え?そうですか?」
変だと指摘されると気になる。琢磨は自分の腰の辺りを見た。
「ちょっと外してみて。協会名が書いてある方の端を左手に持って…長さ合わせて。こう結ぶ」
椎名は自分の帯を外して改めて結び直し、琢磨に示してくれた。
しかし、言われたままやってみたもののどうも上手くいかない。
「なんか違ってますよね?」
首を傾げて聞く。帯は二回結んで、両端が同じ長さで垂れなければならないらしい。
結び目の向きも大切だ。
「うーん、ちょっと貸して」
焦れた椎名は、琢磨の正面に立って屈み込み白帯を結び始めた。何となく手持ち無沙汰だ。
結んでもらっている帯に両腕がかからないように両肩を上げる。
目を逸らしているのもおかしいので、琢磨は結び方を見ようとした。椎名の顔が目に入る。
「前からだと出来ないなーもう。後ろから」
突然椎名の声があがったので、ぼんやりしていた琢磨はびくっとした。
なんだか、自分が上の空だったことを咎められたような気がしたのだった。この後に及んでこれではいけない。
椎名はついに琢磨の帯を外して、後ろへ回り込んだ。そして、琢磨の両脇の下から腰へ手を回して、腹の辺りでまた白帯を結び始めたのだった。
人間は、背後へ気配を感じると本能的に警戒する。
受験勉強のとき、そんな英文があった事を琢磨は思い出した。
椎名にしてみれば自分がいつも締めている向きからの方が、帯の結び方がわかりやすいということらしかった。
とはいうものの、椎名からは結び目は見えないためにやっぱり時間はかかった。
「よし、できた!」
椎名は叫ぶと、琢磨の肩を掴んで自分の方へ向かせた。しかし、やはりというか、両端の長さが揃っていなかった。琢磨は両手両足を揃えて立っている。
「なんかやっぱり変だなぁ。人のはやりにくい」
琢磨の肩から手を離し、自分の腰に手を当てて、椎名は笑っていた。
つられて琢磨も笑った。なんだか緊張が解けた。
やっぱり緊張してたんだ、と自分で気づいた。
「ありがとうございます」
琢磨は礼を言い、事務所へ向かった。再びノックする。
「あの、これで大丈夫ですか?」
琢磨が着た道衣を見て、「先生」は言った。
「あ~、ぴったりみたいだね。じゃあそれにしよう。これが申込書」
紙とペンを差し出されて、琢磨は机の隅を借りて申込書へ記入を始めた。佐々琢磨、十五歳。
「十五歳か。もしかして高校入ったばっかりかな」
「先生」は琢磨の学生服から判断したらしい。
「あ、はい」
「なんで始めようと思ったの?」
「テレビで連続蹴り見て。受験終わりましたし、ちょうどいいと思って」
理由を思い出した。琢磨の頭の中には、再びあの場面が展開されていた。
「そうか、じゃあ、オリンピックじゃないのか」
「先生」は笑っていた。
以前オリンピックでテコンドーが話題になったことが記憶にある。
あの時は、別になんとも思わなかったんだけどなあ。
書き終わった申込書を渡し、琢磨はさっそく、気になったことを聞いてみた。
「あのう…道衣には襟に線入ってないんですか?」
師範は、ああ、と言う顔をした。
「それはWTFだね。ここはITFだよ。別の団体なんだ」
「何か、違うんですか?」
素直な疑問をぶつけると、「先生」は目を丸くした。
「まあ、簡単に言うと南と北っていうか…」
一瞬、「実はだね」とでも言い出しそうに、「先生」は難しい説明でも始めかねない雰囲気の表情を見せた。
だが解説は以下の通りにとどまった。テコンドーには大きく分けて二つの団体があること、道衣の差。マッソギ(組手)の時のルールでは、顔面打撃あり。ヘッドギアはつけない。
団体がいくつかあるのか?ふーん。琢磨はようやく合点がいった。
「でも、黒帯になったら襟の所も黒になるよ。あ、でもオリンピックには出られないよ。団体違うからね、ハハハ」
「へえ。知りませんでした」
でも、やることは同じなんじゃないかなあ?特に驚きもせず、琢磨は申込書を書き終わった。
「じゃあ、これが教科書。私は副師範の李です。よろしく」
「佐々です。よろしくお願いします」
教科書、と言って渡された薄い本をめくってみると、技の名称やテコンドーの歴史などがつづられていた。
今日は見学ということで琢磨はすぐに元の制服へ着替えることになった。
稽古場には、道衣を着た人間がさっきよりも増えていた。更衣室に入る。
教科書を鞄にしまい琢磨が着替え始めたすぐそばで、揃いのブレザーの制服を着た三人が道衣を取り出しながら笑って話している。冗談を言っているのかもしれないが、何を話しているのか琢磨にはよくわからなかった。彼らが口にしている言語は日本語ではあるものの、聞き覚えがない単語が会話の中で頻繁に用いられていたからだ。
(韓国の人かな…?)
うち一人は他の二人よりも少し背が高く、目立つ印象を受けた。要するに整った風貌だったのだ。三人はどうやら同級生のようだった。
同じ年頃の男子高校生ではあるが、どうも居心地が悪かった。初めて踏み入れた場所で緊慣れていないこともある。もしかしてあまり言葉が通じないのかもしれない、という不安が漠然とあった。
練習が始まろうと言うこの時間に道衣を脱ぎ始めた琢磨へ、彼らは訝しげな視線を投げた。
その三人の他に、琢磨よりも年上と思しき二人が着替えている。見た目の年齢や服装からして、多分大学生だろう。二人は友達らしく、終始軽口を叩きながら急かし合っていた。
今はとてもゆっくりできる雰囲気ではない。稽古は七時から、時間は迫っている。
高校生らしい三人は全員黒帯を着けて更衣室を出て行った。
続いて制服に着替え終わった琢磨が出た。
ドアを開いた途端に、反対側の壁に貼られた鏡が自分の姿を写しこむ。白い道衣と対照的な、黒い学生服。靴を履いていない、靴下だけの足元はなんだか不恰好だ。なにより無警戒な印象を与える。それを言うなら道衣を着た道場生達は裸足だが、そんな風には見えない。
「佐々君、椅子出して座って見てろよ」
道衣に着替え、大きく開脚して座っていた副師範が、大声で琢磨に呼びかけた。途端に、琢磨に道場生の視線が集まる。
「はい」
琢磨は小さく返事をして、稽古場の隅の椅子に座った。改めて稽古場を見渡した。
椎名はステップを踏んで、アップを始めていた。
延々と足のストレッチを続けている女性に、ダンベルを上げる男性。鏡に向かって、型の練習を始めた高校生。動作ごとに、「チッ」という呼吸音を入れる。
あれって、気合の一種かな?琢磨は面白がった。
「テコン」
更衣室から、さっきの大学生らしき二人の男性が出て来る。帯はどちらも黒だった。
しかし、なんだろうこの道場は。黒帯ばっかりじゃないか?
「じゃあ始めます。四列で並んで」
副師範が、練習の開始を告げた。道場生は、列を作って副師範の前に並ぶ。琢磨も椅子に座ったままなんとなく姿勢を正した。
「チャリョ」
列の一番前にいる右端の人間が、全体を見回して号令を掛けた。声の主はどうやら椎名のようだ。
「キョンレ」
「テコン!」
全員が一斉に頭を下げた。軽く握った両手を、脇の斜め下に向けている。挨拶の時の決まりかな?覚えなければならないことが、たくさんありそうだ。
稽古ではまず最初に、柔軟体操をするらしい。
道場が開いているのは月曜から土曜。練習は八時半までだけど、大体閉める時間が十時半だから、それまでは自主練習をしたかったらしてもいい。週に何度来ても大丈夫。琢磨は、副師範の言葉を反芻した。
琢磨は、次第に練習に見入っていった。